東京フルスロットル

英語と地理と歴史を駆使したコンテンツが好きだったんですがもう仕事に毒されてしまったのです。

幼稚園の頃のスカートめくりへの憧れが僕を大人にした

f:id:esimplicitaes:20160807194727j:plain

僕は生まれてこのかた女の子が好きすぎてダメなのである。一度女の子のことを考え始めてしまえば、もうなす術もないのである。それは僕が幼稚園に入園するかどうかの年齢であってもそうであった。すまない、どうしてもこの場を借りて告白しておく。

 女の子への目覚め

僭越ながら僕の記憶力は人並みかそれプラスアルファであると自負している。ゆえに僕が5歳の誕生日を目前にした4歳と11ヶ月の段階でくちびるに妙な感触を蓄える術を習得した記憶があるのだ。そう、僕は女の子に自分のファーストキスをプレゼントするのに成功し歓喜の雄叫びをあげたそうだ。ちなみにそこからその子もチュウに夢中になったらしく僕と100回以上くちびるをチュウチュウしていた。たがいに5歳未満の幼児ながらルネサンス期の芸術絵画の一片になれたんじゃないかと今思う。現在もそのときの感触が頭から離れずに思春期がなかなか終了しない僕を当然ながら悩ませ続けている。これについては友人の証言もばっちりであり、両親のタンスに封印されし「保育レポート」にも「今日もチュウしていました」なんて記述があるから後には戻れない。このレポートの存在を知った小学校入学前に、僕は自分の人生の方向性を見出していたようだとたびたび懐古する。

 スカートへの道を遮った忌々しきポケモンたち

そうこうするうちに僕は小学校へ上がると、幼稚園の頃には照れくさくなってできなかった「スカートめくり」まで覚えたのである。やっとのことで体得した手技であったが、なぜ小学校進学時まで僕の羞恥心を刺激し続けていたのかはわからない。ただ推測するに、僕が幼稚園時代を謳歌する頃に、あのいまいましい動物たちがテレビとゲームの中で相当なプレゼンスを発揮していたことがある。その存在感の根底にはこんな歌がある。

   

「(省略)あのこのスカートのなか♪ きゃー」

こやつが諸悪の根源でござるのだ。ポケモンである。

僕はこの動物たちのシリーズがまさか社会現象にまでなるとも考えていなかったのである。幼稚園やその他の場所でたびたび「ポケモンマスターになる」なんて歌を合唱させられるのだが、そのたび避けては通れない「あの子のスカートのなか」なのである。僕ら幼児たちは男女問わず「スカート」に関する文言を聞くと、パブロフの犬がよだれを我慢できなくなるであろう状況も、僕らはよだれを飲み込むようにと刷り込まされていたのである。

まさにこの歌詞の一節が世の中の健全な性のあり方に非常に大きな問題提起をなしたのである。よくわからん擬似動物たちがバトルを繰り広げては毎週木曜日の放送時に僕の頭のなかで「スカート」がこだまするのである。僕はこれによって自分たちが体現しようとしていた「幼児性」に大きな妨げを被ったのである。そう、僕はスカートをどうこうするのがたとえ幼児であったもヤバいことであるとはこのアニメの主題歌を通じて学んだ。

   

スカートの向こう側に見えた絶望

ポケモンスカートの熱狂が落ち着いてからというもの、僕は好きな女の子にスカートめくりを施してあげることへの熱狂を抑えられずにいた。いつかあの子のスカートのなかで、おふふ。淡い願望が炸裂した結果、ついに僕はあの子のスカートのなかがどうなっているのかを目の当たりにした。やっとの思いで彼女のスカートに対する渇望が具現化されたというのに、そこに描かれていたのは僕の大嫌いであった「おジャ魔女どれみ」の「マジョルカ」というポケモンを百倍ブサイクに描いたような怪物であったのだ。僕は吐き気を催したに違いない。クラスの女の子たちの不評も確立されるわ、成果に乏しいわで、淡い恋心が幕を閉じたのである。もちろん先生にも咎められた。

結局のところ、僕はポケモンの歌によって性の方向性が極端に歪められてしまったのだ。あの歌がなければスカートなんてアイテムに過敏に反応せずに済んだというのにだ。大の大人になった今であっても、駅の階段およびエスカレーターで視線を上に向けることができない。それはほぼ三つ子の段階で「スカートに関わると、ろくなことがない」と見事に刷り込んでくれたポケモンとおジャ魔女どれみとクラスメイトの女の子たちの奏でる不協和音のなせるとこだったのだろう。

 スカートからの自立と悟り

こんなスカートでも高校時代には先輩から女装を強制させられるのであるから僕の人生のあり方も都度見直しが必要なのであろう。それに年をとればとるほど、女の子のスカートを合法的にめくれる回数が飛躍的に増加している。いやはや、もはや「スカート」が僕に描いてくれた「あるべき姿」はとうに失われたばかりか、単なる幻想に過ぎないものであったと思わせてくれる。いまやスカートの持つ希少価値は皆無、僕が次にめくるべきスカートはどこにもない。

ところでたった今しがた僕がこの記事を書きながら気づいたことがある。大人になるとは「夢を失い現実を知ること」である。大人はほんとうにつまらない。そこで僕に必要な新たな幻想が「幼児性への回帰である」ということだけは間違っていると強調しておかなければならない。なぜなら週末の飲み会であの大嫌いなおジャ魔女どれみ「カーニバル」を独唱させられたからである。もう幼児時代の思い出には何一つとしてロクなことがないのであるから、大人はつまらないながら現実を見定めているのであろう。バイクを盗んでも免許がなければ意味がないのだ。