東京フルスロットル

英語と地理と歴史を駆使したコンテンツが好きだったんですがもう仕事に毒されてしまったのです。

「ゆとり」の俺を「ゆとり」にさせまいとした恩師の指導法

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 夏休みが明けると同時に、先生の怒号が教室の鉄筋をも震わせた。

「それなら私にも考えがあります。放課後にお知らせするとしましょう」

 

激増した宿題の量

ことの発端はというと、クラスメイトの実に1/3が夏休みの宿題をなんらかの具合で仕上げなかったからだ。

 

小学五年生の夏休みが明けて最初の登校日であった。

この日を境に、俺たちは先生が憎くて怖くてたまらなくなった。

 

「はい、それでは夏休みの宿題を回収します。みなさん立ち上がって下さい。いまから指定する机の上に、それぞれの課題を重ねていってください。」

レストランのバイキングを思い起こすとわかりやすい。夏休みの計算ドリル、漢字ドリル、自由研究(提出するかどうかは自由ではない)、調理レポート、その他細々とした提出物を、それぞれ決められたスペースに規則正しく置いていくという作業だ。

 

その作業が終了し、先生が回収のために束になった課題たちを見て、だんだんとその表情から彩りを失わせていくのであった。

「誤って提出を忘れたという人はいませんか?計算ドリル課題の山だけ、どうもボリュームに欠けるのですが。いえ、他の課題も思いの外、小ぶりなようですね」

この言葉に反応するものはいなかった。

先生は仕方ないという目をしたかと思えば、夏休み前までは一切見せることのなかった表情を俺たちに披露した。

「全員立ってください」

「いまから呼ばれた人だけ座ってください」

どれほどの児童が己の未来を案じたかは想像に難くない。

   

膨大な宿題に圧倒される日々

話を少しだけ先に進めたい。

これを機に、俺たちは夏休みまでの2倍ちょっとの宿題を日々こなすこととなったのである。

 

具体的な内訳は以下の通り。

  • 漢字ドリル 20行×3
  • 計算ドリル 1ページ×3
  • その他(読書記録 / 社会科課題 / 音読 / 暗記物)

ちなみに漢字ドリルの1行には「校門が施錠された」などの短文が1ページに20セット掲載されていた。それらを全文、3回ずつノートに書き写すのである。

そして計算ドリルにも1ページに20問ほど並んでいる。これらも3回ずつ解いて提出した。

さすがに以上の3項目すべてに取り組むわけではなかった。レギュラーメニューは3つのうち2つを取る組み合わせであった。

 

当時の俺たち子どもたちにとっては尋常ならざる重みであった。

それでもガキなりに学んでいたのは「これをサボればどこまでも宿題が増え続けるのではないか」という恐怖心である。他に言い表すには難しいほど消極的理由がそこにあった。俺たちはいつも宿題に怯えていたのであった。

 

先生は合唱祭がある日も、球技大会がある日も宿題を出し続けていた。俺たちはいつも宿題と戦っていた。

 

その「物量」に根を上げる子どもたちがちらほらいた。彼らは宿題をやらずに登校するのである。そしていつも先生の前で「20分休みのうちに仕上げます」と申し述べるのが恒例となっていた。先生はそれをよしとするから、彼らは終わらなかった分は学校で消化するようになった。

その一方で、鉛筆の消耗がいよいよスピードを上げていったので、禁じられしシャープペンシルを使い出す猛者も現れた。先生はそれを発見すると、その児童を問い詰めたが、強気の彼女が理路整然とシャープペンシルの必要性を説いたため、難なく承認された。それぞれがにわかに変化を見せていったのだ。

 

俺たちは本当によくがんばった。来る日も来る日も先生の機嫌を伺い、毎日変わらぬ宿題と淡々と向き合いこなしていく。

 

宿題の向こう側に生まれた成果

そして俺たちはメキメキと力をつけていった。

 

ある日を境に、徐々に宿題の処理スピードが上がっていることに気がついた。毎日宿題をこなす時間を設けていたのだが、気がつけば布団に入る時間が少しずつ早くなっていたのであった。

 

友人にこれを話すと、彼も同感だったようだ。俺を含めた一部のクラスメイト、はもう計算ドリルも音読課題も、漢字ドリルも、テキストを見ずとも宿題をこなせるようになった。計算ドリルに至っては問題をみただけで答えがわかるほどだった。

   

すごいやつに至っては問題が何ページの何行目にあるのかもしっかりと言い当てるほどであった。その一方で宿題をうまくこなせない要領の悪い者は、いまだに宿題に怯えていたようだった。

少なくとも俺と一部の友人は宿題にそこまで苦しめられることはなかった。そしてその友人は中学受験への道へと進み、最終的に関東地方で「御三家」と呼ばれる名門校へと進路をとっていった。俺はというと、公立中学校へと進学するも、高校受験までは特段勉強に苦労を覚えた記憶がない。間違いなくあの膨大な宿題の量にこそ、自分たちが学習面で一定の成果を得るに至る秘訣があると思う。

 

ゆとり教育の一側面

ところでなぜ先生はここまで厳しく俺たちこどもたちと向き合ったのだろうか。

当時、俺たちがこうした扱いを受けたのは2003年であった。そう、ゆとり教育が全面的に施行された次年度であった。

先生は事あるごとにゆとり教育の施行を嘆いていただけでなく、実際に自分の手を煩わせてまでも俺たちに課題を与えて鍛え続けたのだろう。なんといっても俺たちの山のようなノートを、ひとつひとつしっかりとチェックを欠かさない人であったから。

ちなみに先生のおかげで、俺は円周率を下50桁まで唱えることができたし、先生のおかげで自分で好きな本を読む習慣が形成された。俺の10代前半の基礎学力を養ってくれたのは、やはり先生だ。

 

ところでゆとり教育が本当にもたらしたものはなんだろうか?

それは多方面で議論がなされているであろうが、強いて言うなら良くも悪くも「教育格差の拡張」にあるのではないか。

これには二つの側面がある。

必要とされる学習量が減る

おれたちはかつて必須とされた一部の学習内容から解放された。しかしそれなしでは小学校課程とはいえ、体系的な理解を阻害していた。これによって、勉強したいやつだけが知識を蓄えることができ、ほぼ必然的に学力格差を生む土壌が用意された。(例えば、歴史の授業。教科書通り鎌倉幕府の行きづまりを学習したは良いが、驚くべきことに、次ぎのページでは南北朝時代を飛ばして室町幕府へとタイムスリップしたようだ。俺は飛躍が気になって自分で参考書を買った)

教師次第

もうひとつはずばり教師との巡り合わせである。俺たちはたまたま、ゆとり教育に問題意識を抱く人に面倒を見てもらった。しかし、隣のクラスは違ったようだ。その違いが、先生に対する憎しみを増長させていくのだ。なぜなら隣のクラスはゆるやかな秩序のもと、宿題への取り組みにも強制力が及んでいなかったからだ。

この現象を二元論で語ることは簡単にはいかないだろうが、少なくとも俺に良い影響を与えたのは「夏休みが明けたのちの先生」であった。あのとき先生が豹変しなかったら、俺はずっとだらけた学習態度を貫いていたことだろう。

その一方で課題の量についていけなかったものも、課題を自らの血肉に取り込むことができなかったものもいる。つまり勉強が好きなやつ、得意なやつにとってはとても効果的な「施策」であった一方、そうでないものにとってはただの苦痛の「試策」に過ぎなかったのだ。

 

終わりに

俺はあの夏休み明けから数年の間は先生が憎くてたまらなかった。

それでも、先生のありがたみを感じたのは高校受験のとき。初めて先生の鬼のような指導に感謝の念を覚えたのである。

先生は俺の人生における大きなきっかけを生んでくれた。

 

あのとき、宿題を提出したものだけが着席を許された、あの瞬間から俺の人生が変わったのだろう。

 

やはり宿題に取り組まなかった者は、他の善良な児童にも謝らなければならないが、どれほどの生徒が申し訳のなさに苛まれていたことだろう。まったくいなかったはずだ。その日の下校時までは。

 

 

先生、ごめんなさい。宿題一個もやらなかったの、俺だけでしたね。

でもありがとうございました。