東京フルスロットル

英語と地理と歴史を駆使したコンテンツが好きだったんですがもう仕事に毒されてしまったのです。

ゆとり新卒だけど、なんでデスクに食パン置いちゃいけないんだよ

 

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入社して数日のこと、俺は食パンを自分のデスクに置いてしまったために、目の前に鎮座してらっしゃるお局先輩の逆鱗にふれた。

 

「東京フルスロットル君、こ、これはなんですか!?」

   

 ゆとり新卒を手玉にとる先輩

俺がデスクの上に食パンを置いていたのは、ペットボトルなどのドリンク類をデスクに置いておくあの感覚と全く相違ない。そして先輩は無知無能なゆとり新卒に対して、あまりに舐めきった質問を打ち込んできたのであった。これはなにか。そんなの見ればわかるだろ。

 

「超熟です。」

 

決して間違ったことは言っていないはずだ。これは何かと聞かれたのであるから、食パン、または親切にそのパンのブランド名を答えて差し上げるというのが大人の対応なのだろうから。+αの価値を提供できてこそ初めて相手に感動を与えられるのだ。しかし予想外の反応が先輩の口から飛び出てきた。

 

「それは知ってます」

 

俺はまったく不安になった。この先輩は既知のものに問うてみせたのである。脳みそスペックとストレージに不安がこびりついているこのゆとりに、先輩は若年性の痴呆にひどく苦しめられているのではないかとあらぬ不安を抱かせているのだ。まったくもって先輩失格である。部下を心配させるとは、年次の高いものとしての自覚と責任に欠けた振る舞いそのものである。そのへんに棍棒でも転がっていれば一発食らわせてやりたい気も生じてきたのであった。もちろん加減して痴呆の進行を抑制させつつではあるが、時にこのような「先に生まれた輩」には荒療治が有効かつ適切である場合があるのだとどこかで神のお告げを聞いた。

 

ゆとり新卒は話が通じないのか

「ちなみに僕のです」

 

そう、繰り返しになるが、相手を喜ばせるには常に相手の期待を超えることを心がけるべきなのだ。期待通りでは結局±0なのだ。だから俺はこの超熟の持ち主であることも、先輩に聞かれる前に答えて差し上げたのだ。実によくできた後輩である。マニュアルがカバーしきれない範囲にまでその思考の痕跡が伺えるではないか。

 

しかし、これはどういうことなのだろうか。一体先輩はなぜこうも分かりきった質問をぶつけてくるのであろうか。俺は義務教育課程はもちろんのこと、高等学校も大学学部課程も消化してきたというのにだ。四則計算なら社会人過程でも履修しているほどである。いやはや、犬の汚物でも投げつけられている気分である。それに対して俺ができることとは、シンプルに先輩の痴呆にお付き合い申し上げるだけなのだろうか。実に解せない。とりあえず老害というおぞましい単語が目の前で実態となり、彼女のハリケーンのような怒りが猛威を振るっているのである。

 

「んなこと聞いてないんですよ。なんで食パンがデスクの上にあるのかを聞いているんです」

 

   

ゆとり新卒だけが本当にコミュ障なのか

かつてこれほどまでに脳内を爽快感が駆け巡った瞬間があったであろうか俺のアタマよ。いましがた目の前の老害先輩がついに謎解きを披露しておいでだったのだ。きっとお釈迦様がお悟りになったであろう瞬間に準ずる快感であったと思う。わかるというのは誠に気持ちがいい。

  

しかし、それにしてもこの先輩のコミュ症っぷりには頭が上がらない。聞いてもいないことをさも聞いたかのような言い草は、きっとゆとり教育の導入を余儀なくされたであろう当時の教育現場に対する溜め息そのものであったたに違いない。ゆとり教育過程の導入後、世間では学力の低下がたびたび槍玉にあげられるが、このやり取りにおいても、俺らゆとり側が一方的にその十字架を背負わせられるのであろうか。ゆとりの俺にこんなおぞましい想像を働かせるとは、さすが「先に生まれた輩」である。尊敬と侮蔑のカオスな世界に自らの価値観を放ってしまった感がたまらない。心地の悪さに吐き気と倦怠感を覚えた。吐き出せずにいるこの理不尽な感情に体も心もゆとりすらも毒されていくのである。

 

 ゆとり新卒の価値観と常識の罠

「東京フルスロットル君、デスクは綺麗に使ってください。常識的に考えて社会人として食パンをデスクに置いておくなんてありえないですよ。」

  

こまったものだ。目の前の老害がどんな常識でどんな風に育てられたのかは興味も関心もないが、己の常識がゆとりに通用するなど、なんてゆとりたっぷりな発想であろうか。世間には常識を超えた出来事やニュースが数多溢れているというのにも関わらず、この「先に生まれた輩」というのは自分の信じるものが第一に優先されると主張しているのであろう。

だから今も昔も宗教対立が終息の日を迎えられずにいるのであろう。とりあえずバカも休み休みおっしゃって頂きたいものである。知ったこっちゃないのである。常識的に食パンをデスクに置くなとは、論証が大いに必要な主張であるのだよ。

 

ちなみにこの超熟は素晴らしいコストパフォーマンスなのである。1円あたりのKcal数が5以上なのである。超熟こそ貧しくも清く生きたいと願うゆとり新卒のたったひとりの栄養士なのである。

 

それでもゆとり新卒は折れるべきか

「いますぐロッカーにしまってきてくださいませんでしょうか。こんなくだらないことを何度も言わせないでください。」

 

何度もだと?くだらないだと?この先輩は価値観こそ凝り固まってはいるようだが、このように双方向のコミュニケーションの術は心得てらっしゃると見た。露骨なツッコミ待ちの姿勢は俺を大変満足させうるのである。いまに彼女をロッカーへと突っ込んで差し上げたいものだ、この超熟もろとも。

 

しかし、なぜいますぐロッカーにしまわないといけないのであろうか。目の前に「超熟」のブランドがぶら下がっていると仕事の生産性にとてつもない悪影響でも生じるというのであろう。それとも仮にオフィスに取材が入ったとして、撮影された写真に「超熟」が映り込むと「おとなの事情」的に大層な騒ぎになってしまうのであろうか。いずれも否である。うちの会社では生産性はおろか広告効果すら測定されておらんのだ。

 

そう、先輩は超熟を食べたかったのだろう。

 

おれはこの結論になかなかたどり着けずにもどかしい思いをしていたことを打ち明けたい。小さい頃から両親はじめ、おとなの理不尽極まりない世界というのを肌で感じてきた身である。大人こそ子供をバカにできないほど理屈が通じないこともあるのだ。

 

明らかに理不尽な主張である。目の前に超熟が置いてあるだけである。まさか大切な超熟が一切れのビニール袋を纏うことなく「ハダカ」のまま放置されているわけではない。そして超熟に欲情するほどの年齢でもあるまい。お局先輩から放たれた罵詈雑言の数々は一見すると俺に向けられているようにも思えるが、本当のところ、その怒りの切っ先は食パンを切り刻むために向けられたのであろう。結局カットしたいだけなんであろう。せっかくの機会であるから、先輩のその頬袋だけは可愛さの残された最後のフロンティアに例えて差し上げようではないか。

 

   

 

所詮俺はゆとりの新入社員である。「先に生まれた輩」に「超熟一切れ差し上げましょうか」なんて気の利いた提案などできるべくもなかった。それ以上に、おそらく先輩にとって喉から手が出るほど欲しかったであろう、この超熟をそう容易く引き渡すわけには行かぬのだ。先輩こそ学ぶべきことがある。自分の欲求が簡単に実現されるほど世の中は豊かでないのである。友達から教えて貰った「ゼロサム」というワードが脳みそをかすめたようだが、一連の思考は口が裂けても申し上げられないほど俺は小心者である。

 

 

 

俺は言われるがまま足早にロッカーへと向かった。ロッカーを開き愛しの超熟をその薄暗いロッカーの片隅にそっと放してやった。あばよ。きっと俺の優しい眼差しと哀れみに満ちたこぼれ落ちる滴とを、超熟は受け止めてくれたに違いない。多分俺は超熟のぬくもりを、忘却の彼方へと追いやってしまうだろう。やはりこの超熟が「先に生まれた輩」の苦々しい記憶とひも付けられている以上は、俺も辛い思い出とは少々の距離を設けたいと思ったのだ。超熟に罪がないのは認める。あとは俺に任せてくれ。きっとまた会おう。その日まで。ロッカーをゆっくりと締めて施錠を終え、誰もいなくなったデスクへと戻った。

 

 

 

 

 

数日後、なんとも表現不能な臭いがオフィスの一角を騒然とさせていた。感のいい同期が冗談まじりに死体遺棄事件の匂いも嗅ぎ取っていたから驚きである。どうやら現場はロッカー付近らしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、超熟が超熟していたのだ。