【前編】馬になって山手線1周したら価値観変わるのかな
「世界1周が僕を変えたんだ」
はあちゅうさんがこれを聞いたら激怒するかもしれない。実際には呆れ返るだの興ざめするだの驚愕の薄っぺらさだと宣うのかもしれない。
けれども俺は信じている。
山手線1周でも価値観を変えることができるのだと。
この取り組みには社会学的に非常に前衛的な手法として認知されうることを期待している。
人が変わる瞬間とは何か。それはまだ見ぬ環境にその身を置いた時であり、変化の激しい状況に自身が陥ってしまった時だろう。
この昼、俺は新しい方法で自分の価値観を激変させようと思う。
それはどんな方法なのか。自分を見る視線を非日常的な状況に変えてしまうことだ。
馬になるのだ。
馬になった自分は周囲の人間に与える認識を激変させるかもしれない。そもそも馬になるなりしなければ俺がそこにいることに誰も気がつかないであろう。彼らが見ているのは「電車に乗ってる普通の人」だからだ。「電車に乗っている普通の馬」にはびっくりしてしまうことだろう。そんなびっくりした彼らは私を見てこう思うのだろう。
何のマネだ?
バカなのか?
景気の悪さに頭をおかしくしたのか?
鉄道警察は何をしているんだ?
普段の俺ならば彼らにこのような考えを抱かせるほどの衝撃は与えられないだろう。
このような考えを抱いた人間が支配する空間に、たった一頭で飛び込んでみるのだ。普段の自分の常識や価値観に反する環境をある山手線車両内に形成してみるのだ。そこで自分の変化や価値観の揺らぎというものを強引にも体感するという試みだ。
世界一周で価値観が変わるのは非常識的な環境に自分を晒しているからなのだろうという仮説に基づいている。ならばこの山手線車両の中でも工夫次第で価値観のひっくり返りも再現可能であろう。
ところで馬のマスクだけで事足りるあのだろうか。俺の構想ではまず周囲の人々の価値観を変えた結果、間接的に自分の価値観を変えることにある。何か手段はないのか。その答えはやってみなければならない。
その心細さのために今日は強力な助っ人を呼ぼうと思う。クマだ。
俺は一体なにを証明しようとしているのか。
そう、山手線1周ですら価値観を変えることができたのだから、世界一周なら容易に価値観を、自分を、人生を変えられることができるはず。これを導くのだ。
俺はルールを設けたいと思う。
馬の俺が話していいのは原則として「は行」の単語に限るというものだ。
仮に話しかけてくる者がいたとしても俺が発するのは「ヒヒーン」だけということだ。
そして山手線内で愚かしい振る舞いをしている自分に暖かい言葉が投じられたとした、一言一句誤ることなく記事にしたいと思う。
山手線は黄緑色のラインが入った車両だ。
今日俺は馬になる。
馬の俺が山手線に乗る。
今日は俺は「キミドリのマキバオウ」になるのだ。