東京フルスロットル

英語と地理と歴史を駆使したコンテンツが好きだったんですがもう仕事に毒されてしまったのです。

酒の席でいつも同じ妄想をしてしまう悩みについて

 

例えば。

相手と向かい合った状態で酒を飲んでいる。普通の居酒屋で、個室などではない。シンプルなテーブル席で、隣の卓の会話も聞こえる。

こんな状況で、いつも僕が考える事がある。目の前にあるジョッキ。向かいの人なんかお構いなし。このお酒を頭から浴びたら、目の前の人はどんな反応をするだろうか。

 

 

いつも勇気が出ないのだ。おそらく相手は戸惑いを覚えるだろう。そもそも我々日本人、もっと言うなら都市で暮らすものに、自らの服を公共の場で濡らすなんて習慣は無いに等しい。それも人前で。さらに一旦収納された液体を別の容器に入れる動作も、せいぜいお酌の時くらいである。液体が元の容器から解き放たれ、地球の重力のなすがまま、なされるがままになるなんて珍百景。それが人間の一部に「自由の名」のもとに降りかかるなんて悲劇でしかない。

 

このような愚行は目の前の相手にとってはほとんどニーズあるものとは言えないだろう。おそらく僕が物理的に酒を浴びるよりもしてほしいことがあるはずだ。そう、浴びるように酒を飲むことをきっと望んでいるだろう。だって僕はお酒が得意ではないからだ。

 

じゃあどうすればいいのだ。こういった妄想癖が幾多の状況下で突発的に繰り返されるのに僕は非常に悩まされてきた。居酒屋で酒を浴びる。こんなのただの比喩なのに。

ならば目の前の人にお酒を浴びせるとどうなるのだろう。

 

こうして相手との会話は話半分となり、返事はてきとーになる一方だ。どうしたものか。だれか僕に酒を浴びせてくれ。できれば居酒屋で。そう思えば早稲田の学び舎は幼稚園よりも幼稚舎だったのだろうな。あの校舎では人々はゲロすら受容する。ゲロに向かって跪いて礼拝をやっている。ちなみに彼らはメッカを向いていた。

 

そんな大学時代であれば僕の妄想が現実化したとして、大いに歓迎されたものであろう。高校生には早すぎるが、幼稚園児がやるにも幼すぎるのだ。大学生にだけ許された「大人の幼稚性への回帰行動」である。モラトリアムな大学生活。いまとなっては複雑怪奇な行動だと認知できるあたり、僕も大卒としての成長を実感せざるをえない。せざるをえない。